インナーチャイルドを癒す: 第1話

インナーチャイルドを癒す: 第1話

夢の中のざわめき

強い日差しが降り注ぎ、土埃の香りが漂っている。目の前にはすべての塁にランナーが埋まり、場面は緊迫している。プレッシャーと期待が交錯する中、「ここで一発決めるぞ」と気合を入れながら、打席へ向かう自分。周りの声援が耳に届き、心は高鳴っている。

そのときだった。背後から聞こえる声に振り返ると、ベンチの仲間たちが何かを言っている。けれど、何を言っているのかよく分からない。さらに審判が「早く打席に入れ」と促してくる。その瞬間、ハッと気づいた――自分はバットを持っていない。

焦ってベンチに戻ろうと足を踏み出すが、急に体がスローになったかのように動かない。もどかしさを感じながら、力いっぱい足を動かしベンチへ向かう。ベンチの隅にバットを見つけた。「よし、これで大丈夫」と、手に取って再び打席に向かうが、まだ体が重いままだ。

「早く行かなきゃ」と焦るほどに、足は自分の意志を無視するように重くなる。力を込めても空を切るようで、焦りだけが胸の中で膨らんでいく。

ようやくの思いで打席に立つと、自分の手にバットがないことに気づく。「あれ?」と再びベンチを見ると、仲間たちが騒いでいる。さっき確かに持ったはずのバットがどこにもない。もう一度取りに行こうとするが、相変わらず足が動かない。周りの視線が突き刺さるように感じる。「早くしなきゃ」と焦る気持ちが募り、嫌な汗が全身を伝う。

「もーー!」と叫びそうになった瞬間、パッと目が覚めた。

夢だったようだ。

枕元の時計を見ると、まだ5時55分。外は少し明るくなり始めている。もう一度寝ようとしたが、さっきの夢のざわつきが残り、どうしても目が冴えてしまう。仕方なくリビングに向かい、コーヒーを淹れて一息ついた。部屋には静寂が広がっているが、心の中には微かな違和感が漂っていた。

「またこの夢か……」と、ふと呟く。

この手の夢は場面が違えど、定期的に見ることがある。何かが必要なのに、それが見つからない。体が重くて動けない――そんなもどかしさを抱える夢だ。何かを示唆しているような気もするが、夢ならではの不条理さのせいで、いつも深く追求することなく記憶の奥に押しやられてしまう。

その日は午前中から、彼女と買い物に出かける予定だった。先週、彼女から「母の日のプレゼントを一緒に買いに行こう」と誘われたのだ。彼女は幼い頃に母親を病気で亡くしており、僕の母親を本当の母親のように慕ってくれている。僕の母も、彼女と友達のように仲が良く、一緒に買い物に出かけることもあるらしい。

そんなことを思い出しているうちに、朝の夢のことは記憶から薄れていった。ただ、胸の奥にはまだ少しざわつくような違和感が残っていた。

デパートに着くと、彼女に連れられて向かったのは絵画用品のコーナーだった。母親が絵を描くことが好きだという話を、先日、彼女から聞いたのだ。どうやら最近、二人で美術館の前を通った際にその話をしていたらしい。僕には絵心がないので驚いたが、確かに学生時代に美術の時間で描いた絵を母に見せると、「ひどい絵だね」と笑われた記憶が蘇る。

彼女と相談して、母の日のプレゼントは絵画セットにすることにすんなり決まった。けれど、僕も彼女も絵の知識がまるでなく、「水彩?油絵?それともパステル?」と、言葉だけは知っているものの、どれを選べば良いのか全く見当がつかない。商品の棚を前にして二人で首をかしげ、結局「まずは店員さんに聞こう」という結論に至った。

店員さんを見つけた瞬間から、僕のターンが始まった。

「このセットの違いって何ですか?」

「どれくらいの頻度で使うと減るものなんですか?」

「初心者でも扱いやすいですか?」

次から次へと質問が口をついて出る。普段こういう場面では彼女が話すことが多いのに、この時ばかりは僕がひたすら店員さんに食らいついていた。頭の中では「せっかく贈るのだから、絶対に間違えたくない」という気持ちが膨らんでいき、質問攻めが止まらない。

気づけば1時間近く経っていて、店員さんには丁寧にお礼を言いつつ、僕はようやく満足した気分で商品を選び終えた。彼女は少し驚いた表情を浮かべながらも、「こんなに真剣に選んでるあなたを初めて見たかも」と小さく笑っていた。

その言葉に、僕は一瞬戸惑った。自分では「これが普通」だと思っていたけれど、もしかしたらプレゼントを選ぶときの自分には、普段とは違う一面が出ているのかもしれない。なんとなく不思議な感覚が胸に残った。

お会計を済ませようと店員さんに商品を用意してもらっている間、隣のおもちゃ売り場から、子どもの泣き声が聞こえてきた。視線を向けると、小さな男の子が駄々をこねている。母親が何かを諭しているが、どうやら欲しいおもちゃを買ってもらえず泣いているようだ。その光景を見た瞬間、僕の胸の奥にざわめきが広がった。あの子どもの姿が、まるで自分自身を見ているようだった。

「どうして自分だけ……」と呟くような幼い自分の声が響いた。

友達が手にした新しいグローブやゲームを眺めながら、「なんで自分だけが我慢しなきゃいけないのか」と歯を食いしばった記憶が頭をよぎる。その感覚が、今も胸に深く沈んでいる気がした。

会計を終えてプレゼントを手にした彼女は、無邪気に笑っていた。

「こんなに真剣に選んでもらったらお母さんもきっと喜ぶよ!」

プレゼントを抱えた彼女の姿が、どこか輝いて見えた。このプレゼントがどんな未来を描くのか――そのときの僕には、まだ想像もつかなかった。

第2話「プレゼントに込めた記憶」へつづく