インナーチャイルドを癒す:最終話

インナーチャイルドを癒す:最終話

過去からの新しい循環

「OKいいよ!でも全然体動かしてないけど大丈夫かな?戦力にならないと思うよ。」

「大丈夫、大丈夫、お前が来てくれるならかなりの戦力アップになるからみんな喜ぶよ!」

電話のスピーカーから聞こえてくる明るい声は、高校時代の野球部のキャプテンのものだった。

今週末にある草野球の試合に、人数が足りなくて助っ人として僕に声をかけてきたらしい。

「わかった、用事は午後からだから午前中で終わるなら全然大丈夫、9時にはグラウンドに行くよ!」

約束を取り付けてホッとしたように「よろしくな!」と言って友達は電話を切った。

野球なんて久しぶりだな――そう思いながらも、ワクワクした気持ちが自然と湧いてきて、真っ先に「グローブはどこだっけ?」と探し始めた。その瞬間、数日前のお金さんとのやり取りがふっと頭に浮かんだ。インナーチャイルドのワークで感じた、子どもの頃の感覚や記憶が次々と交差していく。このグローブを探す感覚――グローブが欲しかったあの頃の気持ち。胸の奥からいろいろな思いが込み上げてきた。

押し入れの奥からようやく見つけたグローブ。それを手に取った瞬間、心の中から言葉が自然と溢れた。

「あの時、我慢してくれてたからだね。ありがとう。」

素直に、そして深いところから湧き出た感謝の言葉だった。

そのグローブは、数年前、まだ付き合い始めた頃に彼女が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。当時は頻繁に野球をしていたわけではなかったのだが、「プレゼント何欲しい?」と聞かれた時、自然と口をついて出た言葉がこれだった。

「野球のグローブが欲しいな。」

その時、彼女は一瞬驚いたような表情を見せたものの、すぐににっこり笑って「いいね、じゃあ気に入るのを一緒に探そう!」と楽しそうに答えてくれたのを、今でも鮮明に覚えている。

手にしたグローブを眺めながら、不思議とあの時のやり取りが蘇ってくる。そして、ふと思った。あの言葉――「グローブが欲しい」という願いは、もしかしたらインナーチャイルドからの声だったのかもしれない。ずっと手に入れたかったものを、やっと叶えられたような感覚だったのだ。

彼女が選んでくれたこのグローブ――そこに込められた温かい気持ちが、じんわりと胸に広がっていった。

試合当日、グラウンドに立った僕は、久しぶりに体を動かす楽しさを味わっていた。結果は負けたものの、みんなで笑いながらプレイする時間は、いつの間にか忘れていた懐かしさを呼び起こしてくれた。

試合が終わり車に乗り込むと、案の定、体のいたる部分が悲鳴を上げている。久しぶりの運動に加え、草野球とはいえ本気で挑んだので全身が疲労で重かった。そのままスパにでも行って体を癒したいところだったが、このあと彼女と一緒に僕の実家に行く予定がある。数日前に購入した母の日のプレゼントを渡しに行くのだ

彼女を迎えに行き、僕の実家へ向かう車内。助手席で彼女が嬉しそうに話す声が響く。

「絶対これ喜んでくれるよね!」

彼女の無邪気な笑顔に、自然とこちらも頬が緩む。その様子を横目に見ながら、握力の入らない手でハンドルをしっかり握りしめた。久々の運動で体は悲鳴を上げているけれど、彼女の明るい声が、不思議と疲れた心と体を軽くしてくれるようだった。

到着すると、兄の家族も来ていた。小学校5年生になる姪っ子と、2年生の甥っ子も一緒だ。最近の甥っ子の元気っぷりには手を焼いているが、その無邪気さにはいつも癒される。僕の姿を見つけると、甥っ子が満面の笑みで駆け寄ってきた。

「野球しようよ!」

無邪気な声が弾けるように耳に届く。断ることなんてできるはずもなく、その笑顔に押されて、再び悲鳴を上げている体を奮い立たせることになった。

甥っ子との野球を終えた頃には、全身に心地よい疲労感が広がっていた。彼の無邪気な笑顔を見ていると、ふと自分が子どもの頃に夢中で野球をしていた日々が思い出された。あの頃、憧れのグローブを手にする日を夢見ながら、いつも泥だらけになってボールを追いかけていた――そんな記憶が、甥っ子と過ごす時間の中で静かに蘇ってくる。

夕飯時、家族全員が囲む食卓。その中で、彼女がそっと母親にプレゼントを差し出した。

「これ、良かったら使ってください。お母さん、この間絵が好きだって言ってたから。」

優しい声に食卓の空気が少し和らいだように感じた。

包みを開けた母親は、絵画セットを見て驚きながら、すごく嬉しそうな笑顔を見せた

「ありがとう、私ずっと絵を描きたいと思ってたんだよ。でも中々忙しくてできなくてね。すごく嬉しいよ!」

母親のその言葉が、胸の奥にじんわりと染み込むのを感じた

その後、彼女が僕がどれだけ一生懸命プレゼントを選んだかを話し始めた。母親の顔には嬉しさがにじみ、僕に向ける視線がどこか優しかった。

「実はね……」と、母親が話し始める。

「子どもの頃、おばあちゃんに絵具セットを買ってと頼んだことがあったの。でもダメだって言われちゃってね。それからずっと描きたいと思いながら、こんな歳になっちゃったわ。50年も前の話だけどね。」

母親は笑いながら話したけれど、その「子どもの頃」という言葉が、僕の胸にずしりと響いた。あれは僕自身の子どもの頃と同じじゃないだろうか。もしかすると、母親もまた、インナーチャイルドを抱えたまま生きてきたのかもしれない。お金さんとのワークで浮かび上がった感覚が、母親の言葉と静かに重なり合っていくのを感じた。

帰り道、車の中には静かな空気が漂っていた。実家でいろいろと気を使ってくれていたからだろう、隣で彼女が小さな寝息を立てている。その穏やかな顔を横目に見ながら、僕はお金さんとのやり取りをふと思い出していた。

エネルギーの循環……。仕事では信頼がその鍵だと学んだ。そして今回は、過去の自分と向き合うことで何かが流れ始めたような気がする。それが何なのか、はっきりとは言えないけれど、胸の奥に感謝にも似た、優しく温かな気持ちが広がっているのを感じていた。

それから数ヶ月後のこと。彼女から一本の電話がかかってきた。

「ねえ、お母さんがね、市のコンクールで賞を取ったんだって!」

その声には明るい弾みがあって、思わず耳を傾けた。話を聞くと、母の作品が審査員の目に留まり、小さな仕事のオファーまであったという。

「お母さん、すごく喜んでるよ!これからもいろいろ描いてみようかなって言ってた!」

電話越しに伝わる彼女の楽しそうな声は、母親の笑顔をそのまま映し出しているようだった。思いがけない展開に驚きながらも、胸の奥でじんわりとした暖かさが広がっていく。

お金さんが話してくれた“エネルギーの循環”――これもその一つなのかもしれない。誰かの喜びが、また新たな流れを生み出していく。そんなことを思いながら、彼女の話に耳を傾けていた。

その日の午後、僕はスポーツ用品店の野球グローブコーナーに立っていた。並べられたグローブに目をやりながら、お金さんの言葉がふと頭をよぎる。

「インナーチャイルドに向き合うってことは、今の自分を大切にすることでもあるんだよ。」

店員さんを呼び止め、サイズや素材について質問を重ねる自分がいた。ひとつひとつ手に取りながら、昔の記憶がちらりと顔を出す。子どもの頃、憧れのグローブを手にする日を夢見ていたあの時間……。

やがて、あるグローブを手に取った瞬間、胸の奥に小さな温もりが広がった。その感覚に導かれるように、心の中で静かに呟く。

「もうそんなに悩むことはないんだ。今日は早めに決めよう。」

甥っ子への誕生日プレゼント――それは間違いないのだけれど、不思議と、どこか自分自身への贈り物のようにも思えた。子どもの頃の自分が、目の前のグローブに微笑みかけているような気がした。

「喜んでくれてるかな。」

そう呟くと、レジに向かう足取りがどこか軽く感じられた。プレゼントを抱えた自分の姿が、過去の自分と重なり合いながら、新しい自分への一歩に繋がっている気がした。

第5章へつづく